【アートの力 泣くよかひっ跳べ】ゲストインタビュー①
薩摩切子作家 中根櫻龜(なかね おうき)さん

短期大学卒業後に進学した東京ガラス工芸研究所で、所長から薩摩切子の復興をやらないかと声をかけられたことをきっかけに鹿児島へ渡りました。
江戸時代末期から20年程で途絶えてしまった伝統工芸品を復興するにあたって、一人で職人の男社会に飛び込んだ中根さん。昔の文献等から薩摩切子の研究や施策など試行錯誤しながら復興に尽力されたそうです。伝統を「守る」のではなく「作る」という発想で、素材の開発やデザインを模索しながら新しい作品作りに挑戦し続けています。

【薩摩切子復興への参画について】

1985年、仮設工房にて

Q:なぜ、薩摩切子の復興に携わることになったのですか?

通っていたガラス工芸の専門学校の所長が、薩摩切子の復刻版を制作していて、「この素晴らしいガラス工芸品は復興すべきだ」との思いで、鹿児島で展示会を開きました。その時、強く復興を主張したことで、鹿児島の人が薩摩切子の素晴らしさに気付くきっかけとなり、鹿児島県が動き、県の呼びかけで江戸時代に薩摩切子を作っていた薩摩藩当主の島津家の手で復興する事が決まったそうです。
しかし、当時鹿児島にガラス企業が1社も無く何の手だてもなかったため、技術者探しのために専門学校の所長に依頼があり、当時学生でいた私にお声がかかったのがきっかけです。
後からなぜ私に声がかかったのか確認したところ、復興には商品開発でデザインも必要になるため、美大卒業生から選びたかったとのことでした。

Q:途絶えていた技術をどのように復興させたのですか?

薩摩切子は、江戸時代の末期から明治の初めの20年足らずの期間しか作られていませんでした。なので、博物館とかに残されている現物を見て復興していった形になります。サントリー美術館の学芸員の方が薩摩切子を復興する1年ほど前に、当時見つかっている薩摩切子を全て集めた図録を作っていて、その写真を立体に起こしながら、試作研究を繰り返して技術を磨きながら復興していきました。

Q:若い頃に大役を任される覚悟は最初からお持ちだったのでしょうか?

実は私、薩摩切子の本物を見たことがなかったんです。鹿児島に行って博物館に飾ってある名品を見せられて、「これを君に復元して欲しいんです」と言われたのですけど、学校出たての身で、超一流の工芸品を君の手でお願いしますって言われても、心の中では「いやいや無理ですよ」っていう思いが先に立ちました。「学びながら、この素晴らしい復興事業に関われる面白さの一翼を担えたら良いな」という大それた勢いではなく、歴史の復興に0から携われる面白さに惹かれたことと、後から来てくれるベテランの人について助手的に参加できたら良いなという思いで鹿児島に来ました。でも私が携わっているカットの方は、ベテランの技術者は誰一人来ず、私が高卒の子を教えたり、地元の人を私が指導したり、結局自分が一番に技術を身につけて、人を教える役目をやることとなりましたけどね。

【薩摩切子のデザインについて】

二色衣切子

Q:鹿児島の風土が作品へ影響していることはありますか?

薩摩切子って他のカットガラスに比べて凄く色が濃いなと思っているんです。皆さんもおそらく最初見た時に色が凄いしっかり付いてるという印象があると思うのですけど。ある時、北海道の物産展の会場に立つことがあり、そこのお客様に「これは南国の色ですね」と言われたことがあります。やはり鹿児島ってすごい太陽の光が強いんです。なので色が鮮やかなものほど、風土に合うんですね。この色こそが風土なんだと思ったことから南国カラーみたいなものも意識し始めて、私が二色被せという2つの色を器の中に表現する素材も作りましたが、それも例えば、南国の珊瑚礁はエメラルドグリーンと青があったり、空も青と紫があったりとか、自然の中って単色ではなくて色の移ろいがあって、それがまた日本の美術の美学だったりするじゃないですか。そういったところを切子に盛り込みたいというのもあって、新たに色の開発をしたり、切子カラーにそういったものも取り込んだりしています。

Q:伝統工芸というと保守的なイメージもありますが、デザインを考える上で大切にしていることはありますか?

伝統工芸品に携わっている工芸家の方って伝統を守るっておっしゃるのですけど、薩摩切子は20年足らずなので守る伝統がないのです。なので私はこの仕事に就いた時に伝統を作るという発想で、まずは途絶えていた100年を埋めなきゃという想いで、江戸切子と同じようなものは作っちゃいけない、ヨーロッパのカットガラスと間違われるものも、作っちゃいけないと思いながら、この2つの特徴や表現をなるべく使わないようにするというのが、最初に自分の中で決めたルールでした。
デザインの参考になるものを探すときは、基本的にはガラス工芸の作家さんを参考にはせず、インスピレーションを引っ張り出すのはやはり日本画のものでしょうか。薩摩切子はぼかしがあるので、水墨画とか、ベタですけど昔の尾形光琳など、そういった人の配置や空間の取り方、日本画の中の空気の表現や間の使い方など、絵から学ぶことはあります。
どの工芸も次の人へのバトンタッチがつきものです。守らなきゃいけないけど、次の時代にバトンを渡していくためには、自分の時代にまた新しいものを足し算して魅力的にしてから次に手渡さないと、自分の時代に魅力が損なわれたら、誰も見向きもしなくなる。だからそこはプレッシャーですね。自分の時代に魅力を落としたら駄目だっていう部分で、皆さんご苦労されているのですよね。私は守るところが小さかったので、創作幅が広いという大変ラッキーな状況にありました。37年経ちましたけど、最初の頃は幅が狭かったもののそれから、だんだん変化を大きくしていって、その振り幅で歴史が作られていますので、非常にラッキーです。これから100年後を受け継ぐ人は大変だと思いますけどね。

Q:もし、違う方がこの復興に携わっていたらと思うことはありますか?

私もよくそこを考えます。一番最初に呼ばれたのが、私じゃなかったらどうなってたかなと。例えば私のような学校を卒業したての若い女の子じゃなく、本当にベテランの40代のバリバリの職人さんが来てたら、絶対全然違っただろうなと思います。でも自分だった良さって何か?と考えると、鹿児島出身じゃないことかなと思います。今ではもうここを第2の故郷だと思っているのですけど、鹿児島というものをそんなに知らずに来ているので、第三者的な目で土地を見ることができるところも良かったし、薩摩切子って江戸時代のいわゆる島津家という武士の強い時代の、質実剛健な文化の中で生まれているので、直線カットや、重厚感のある殿様の器みたいなものだったのですが、私が彫ると、女性的だと言われることがあって。そういった女性的な感性が加わったというのは、凄く薩摩切子にとってプラスだったろうなと思います。それと、職人の世界って90数パーセントが男性の男社会ですが、私がメディア等に出るのもあって、うちの会社は、今は加工には女性が半分はいます。男女半々の中で新しいデザインとか商品開発をしていると、本当にバラエティのあるものに広がる利点があるのかなと。だから鹿児島出身じゃなかったことや女性だったというところから、何か皆さんの気付かないものとか何かそこにはなかったものを無意識にできていたような気がします。

磯工芸館店内

【おわりに】

Q:ムサビ通信、地方で活躍する方へメッセージをお願いします。

ムサビの校風として、自由さがあるような気がします。皆さん、型にはまってない方が多いと思うので、 それを良さとして存分に生かしてほしいと思います。あと、学校で学んだデザイン力とかセンスとか、そういったものは地方が求めている部分が多いので、還元してほしいなと。実際に仕事という形じゃなくても、いろんな形でデザイン力とかセンスとか学んだものを活かす場が地方にはたくさんあると思うので、ちょっと私の力を貸してあげようかなとかって思えるものをぜひ見つけてください。幅広い分野でムサビの人ってすごいねって言ってもらえるように、各地方で頑張りましょう。


兵庫県出身。武蔵野美術短期大学を卒業し、ガラス工芸の専門学校へ進学。
卒業後に鹿児島へ移り、薩摩切子の復興・普及に尽力する。

島津薩摩切子